長崎の平和祈念式典とは ―「最後の被爆地」から誓う不戦への祈り
8月9日、長崎市の平和公園で「被爆81周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が行われました。
1945年8月9日、午前11時2分。長崎市に原子爆弾が投下され、多くの尊い命が失われました。それから81年。
現在の長崎には、原爆による甚大な被害から復興を遂げた街並みが広がっています。一方で、平和公園や長崎原爆資料館をはじめ、市内には被爆の記憶を伝え、平和への願いを未来へつなぐ場所が残されています。
今回は、2026年8月9日に実際に平和祈念式典を訪れ、81年目を迎えた長崎の街と、式典の様子を見てきました。
長崎の平和への取り組みは、1948年から
長崎で8月9日に平和への願いを発信する取り組みは、被爆から3年後の1948年に始まりました。
1948年8月9日、GHQ長崎軍政部の許可のもと、長崎市主催の「原爆3周年の文化祭」が開催され、市民代表による平和宣言が行われました。
長崎市ではその後も平和宣言が続けられ、1952年には、それまで市内各地で行われていた慰霊祭などが全市的に一本化され、「長崎原爆犠牲者平和祈念式典」が開催されました。
こうして始まった平和への取り組みは、形を変えながら現在まで受け継がれています。長崎市の公式記録には、1948年以降の平和宣言が現在まで残されています。
81年目の平和祈念式典


※2枚目の写真は2025年(昨年)の中継会場の様子
2026年の式典は、8月9日(日)の午前10時45分から11時45分まで、長崎市松山町の平和公園・平和祈念像前広場で行われました。
当日は台風13号の接近もありましたが、風による会場設備への影響がないと判断され、予定どおり屋外で開催されました。
式典では、原爆死没者名簿の奉安、式辞、献水、献花が行われ、午前11時2分には原爆投下時刻に合わせて黙とうが捧げられました。その後、長崎平和宣言、被爆者代表による「平和への誓い」、児童合唱、来賓挨拶が続き、最後には「千羽鶴」の合唱が行われました。
実際に会場を訪れてみると、広島の平和記念式典と比べて会場はややコンパクトな印象。
高齢の方が多く見られる一方、子どもたちや、学校単位で参列していると思われる団体の姿もありました。
広島とは異なり、長崎は会場へ入るために事前の申し込みが必要です。2026年は6月26日に受付が終了し、申し込んだ人には7月17日に入場整理券が発送されました。
また、式典会場の入場券を持っていない方や、暑さを避けて式典を見守りたい方向けに、当日は長崎原爆資料館ホールや出島メッセ長崎などの施設で式典のライブ中継(パブリックビューイング)が実施されていました。 現地会場に入れなくても、資料館やサテライト会場へ足を運んで静かに黙とうを捧げる市民や観光客の姿が多く見られました。
暑さの中で行われた式典

8月の長崎は厳しい暑さに包まれます。
この日の会場では、参列者の熱中症対策としてミストシャワーなどが設置され、飲料水やおしぼりも配布されました。
実際に訪れてみると、ミストファンや冷たいおしぼりなど、暑さの中で式典に参加する人々への細やかな配慮が印象に残りました。
この日の長崎は朝から厚い雲に覆われていましたが、81年前の8月9日は、強い日差しが照りつける晴天だったと伝えられています。
平和祈念像を見上げると、その頭の上には平和の象徴である鳩が一羽とまっていました。
厚い雲に覆われた空の下、静かに佇むその姿が、まるで平和を見守っているようにも感じられました。
「平和の原点は、他者の痛みをわかる心」

2026年の長崎平和宣言では、13歳で被爆し、顔に大きな火傷を負いながら語り部を続けた故・吉田勝二さんの言葉が紹介されました。
「平和の原点は、人間の痛みがわかる心を持つこと」。
この言葉を軸に、長崎市長は、核兵器をめぐる現在の世界情勢に強い危機感を示しました。
そして、日本政府に対して核兵器禁止条約(TPNW)再検討会議へのオブザーバー参加や非核三原則の堅持などを求め、核兵器のない世界に向けた取り組みを訴えました。
長崎から発信される平和へのメッセージは、81年前の出来事を振り返るだけのものではありません。
現在も世界各地で続く対立や分断の中で、私たちはどのように相手の痛みに向き合い、平和をつくっていくのか。そのことを、改めて問いかける宣言でした。
被爆者代表が語った「対話」の力
「平和への誓い」を述べたのは、87歳の被爆者代表、本村チヨ子さんでした。
本村さんは6歳のとき、爆心地から約4.5km離れた場所で被爆し、祖母が本村さんの上に覆いかぶさることで命を守ってくれたものの、祖母自身は背中に大きな火傷を負い、翌年に亡くなったといいます。
本村さんは昨冬、アメリカのロスアラモス国立研究所や真珠湾(パールハーバー)を訪問。 原爆を生み出した場所の一つであるロスアラモスで現地の人々と対話し、「ここで働く者の誰一人として平和を願わない人はいない」と肌で感じた経験に触れました。さらに真珠湾を訪れた際には、「穏やかな海を見つめながら、なぜ戦争が始まり、多くの命が奪われなければならなかったのか」と深く思いを馳せたということです。
一方を責めるだけでなく、国や立場を超えて互いを知ろうとする「対話」こそが相互理解につながる。 そんな実感とともに、本村さんは「平和とは命を守ること、命とは何よりも優先されるべきもの」と語り、残された時間の限り平和を訴え続ける強い決意を示しました。
子どもたちへ受け継がれる平和への願い
式典で特に印象に残ったのが、若い世代の姿です。
2026年の式典では、長崎県立長崎北高等学校の3年生2人が司会を務めました。
また、児童合唱では、長崎で被爆した医師・永井隆が作詞した「あの子」が歌われ、式典の最後には「千羽鶴」が合唱されました。
被爆者の高齢化が進み、直接その体験を語り継ぐことが難しくなっていく中で、子どもたちや高校生が式典に参加し、平和への思いを受け継いでいる。
そんな姿からは、記憶を未来へつないでいこうとする長崎の歩みが感じられました。
平和祈念像と、長崎の街を見渡す場所
平和公園は、長崎の街を特徴づける起伏のある地形の中にあります。
平和祈念像のある場所へ向かうと、周囲の街並みから一段高い場所にあることが感じられます。
普段は街の喧騒から少し離れ、落ち着いた空気の中で過ごせる場所ですが、8月9日には多くの人が集まり、普段とは異なる緊張感に包まれます。
式典会場の外では、さまざまな市民団体による思い思いのシュプレヒコールも行われていました。
会場の中では静かに祈りを捧げる人々がいる一方、外ではそれぞれの立場から何かを訴える人々がいる。
その光景もまた、長崎の平和公園で感じた印象の一つでした。
被爆から10年、つくられた平和祈念像

平和公園を訪れたら、ぜひ目にしてほしいのが、式典の中心に立つ「平和祈念像」です。
平和祈念像は、彫刻家・北村西望によって制作され、1955年8月8日、被爆10周年を迎える前日に除幕されました。
高さ約9.7メートルの像は、天を指す右手で原爆の脅威を、水平に伸ばした左手で平和を表現しています。
被爆から10年という節目に建立されたこの像は、現在も長崎の平和の象徴として、多くの人々を迎えています。
毎年8月9日には、この平和祈念像の前で、犠牲者への祈りと平和への誓いが捧げられています。
広島を訪れるなら、Hotel Small Worldへ

長崎を訪れる際、もう一つの被爆地である広島にも足を運んでみるのはいかがでしょうか。
広島と長崎、それぞれの街を実際に歩き、被爆の歴史や、そこから復興してきた歩みに触れることで、二つの街が発信し続ける平和への願いをより深く感じられるかもしれません。
広島市内にあるHotel Small Worldは、「平和」をコンセプトにしたホテルです。客室には、原爆による被害や、そこから復興した広島の歴史を知るための資料や参考文献を用意しています。
8月6日の平和記念式典の時期は、広島市内の宿泊施設が混み合うため、宿泊を予定している方は早めの予約がおすすめです。
長崎と広島の二つの街で、歴史を知り、ホテルでゆっくりと「平和」について考える時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。
まとめ
広島の8月6日、長崎の8月9日。
二つの被爆地では、それぞれの場所で、毎年、犠牲者への祈りと平和への誓いが捧げられています。
長崎では、1948年に始まった平和への取り組みが、81年後の現在まで続いています。
高校生が司会を務め、子どもたちが歌い、被爆者が自らの体験を語る。そこには、過去の記憶を未来へつないでいこうとする人々の姿がありました。
「長崎を最後の被爆地に」という願いを、過去の言葉として終わらせないために。
長崎を訪れた際には、ぜひ平和公園に足を運び、この場所で受け継がれてきた記憶と、現在の長崎の街を自らの目で感じてみてはいかがでしょうか。