大久野島 ー 瀬戸内の海に浮かぶ記憶の層
瀬戸内海の穏やかな波間に浮かぶ、周囲約4.3キロメートルの小島、大久野島。広島県竹原市に属するこの島は、現在、数百羽とも言われる野生のうさぎたちが暮らす「うさぎの島」として、国内外から多くの訪問者を迎え入れています。
陽光にきらめく青い海と、草むらを無邪気に跳ね回るうさぎたち。そのほのぼのとした光景は、訪れる者の心を一瞬で解きほぐしてくれます。しかし、歩を進めると島内の至る所に現れる巨大なコンクリートの廃墟群が、この島が持つもう一つの顔を静かに物語っています。
現在ののどかなムードと、かつてここで毒ガスが製造されていたという重い歴史。この二つの対象的な事実が同居する大久野島を歩きながら、私たちが過去から何を読み取り、未来へどう生かしていくべきかを辿ります。
忠海の海辺と、アヲハタが紡いだ産業の記憶

大久野島への旅は、本州側の玄関口である竹原市の忠海(ただのうみ)から始まります。JR呉線に揺られ忠海駅に降り立つと、そこには瀬戸内特有のゆったりとした時間が流れています。
忠海港へ向かう前に、駅周辺で目を引くのが「アヲハタ ジャムデッキ」です。オレンジ色の看板が目印のこの施設は、日本におけるジャム製造の草分け的存在であるアヲハタ株式会社の歴史と、ジャム作りの工程を学べる場所となっています。
アヲハタの前身となる企業がこの地に創業したのは、1932年(昭和7年)のことでした。瀬戸内の温暖な気候が育む豊かな柑橘類に着目し、みかんの缶詰やオレンジママレードの製造を開始したのが始まりとされています。古くから海上交通の要衝として栄えた忠海は、近代以降、こうした食品加工業などが根付く穏やかな産業の町としての顔を持っていました。
アヲハタ ジャムデッキの専用スタジオからは、フルーツを煮詰める甘い香りが漂ってきます。この忠海の海辺に広がる平穏な産業の記憶と、これから向かう大久野島の歴史。二つの異なる記憶が、わずか数キロの海を隔てて並存しているのも、この地域の地理的な特徴と言えるでしょう。
うさぎたちとの邂逅と「現在」の風景

忠海港の桟橋から大久野島行きのフェリーに乗り込みます。海風を頬に受けながら甲板に立つと、水面は陽光を反射して輝き、無数の島々が重なり合う瀬戸内の多島美がパノラマのように広がります。
約15分の短い航海を経て大久野島の桟橋に到着すると、そこはすでに別世界です。船を下りた瞬間から、足元にはあどけない表情をしたうさぎたちが駆け寄ってきます。観光客が差し出す野菜を無心に頬張る姿や、日向ぼっこをして目を細める姿。島の至る所に広がるこのムードは、平和そのものです。
この島にこれほど多くのうさぎが暮らしている理由については、いくつかの説が存在しています。一つは、後述する戦時中の施設において、実験動物として飼育されていた個体が戦後に野生化したという説。もう一つは、島が一時的に完全に無人となったのちの1971年(昭和46年)、地元の小学校で飼育されていた数羽のうさぎが島に放たれ、天敵の少ない環境で繁殖して現在の数に至ったという説です。
いずれの説も推測の域を出ず、現在のうさぎたちがどのような系譜を辿ってきたのか、確定的な史実として断定することはできません。しかし、由来がどうであれ、彼らが現在の大久野島において「平穏」の象徴として存在している事実は揺るぎません。
地図から消された「毒ガス製造」の歴史

うさぎたちが跳ね回る芝生を抜け、島内を巡る道へと歩を進めると、風景は突如としてその表情を変えます。木々の間から姿を現すのは、コンクリートが剥き出しになった巨大な廃墟の数々です。
大久野島の歴史を語る上で、1929年(昭和4年)から1945年(昭和20年)までの15年間は、島そのものの存在意義が完全に異なっていた期間です。この時期、島全体が日本陸軍の管理下に置かれ、「東京第二陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所」として、大規模な毒ガス製造が行われていました。軍事機密を保持するため、当時の一般向けの地図からは大久野島の存在が抹消されました。物理的には瀬戸内海に浮かんでいながら、公の記録上は「存在しない島」として扱われていたのです。
製造の背景と規模
1925年(大正14年)に採択されたジュネーヴ議定書において、戦争における化学兵器の使用は禁止されていました。しかし、兵器としての製造や保有自体は禁止されていないという当時の国際的・法的な解釈が存在し、日本陸軍は極秘裏に施設の建設と製造を進めました。
大久野島が選ばれた理由は、周囲を海に囲まれた離島ゆえに機密保持が容易であったこと、そして本州側からの距離が近く、資材の運搬や労働力の確保において一定の利便性があったためと記録されています。
島内で製造されていた主な化学物質は以下の通りです。
終戦までの15年間で、大久野島で製造された毒ガスの総量は約6,600トンに上ったと推計されています。この規模を支えるため、島全体が一つの巨大な工場として機能していました。
労働環境と事実としての記録

毒ガス製造に関わった人員は、最盛期で数千人規模に達しました。そこには軍関係者だけでなく、近隣地域からの一般労働者、そして戦争末期の労働力不足に伴い動員された学生たち(学徒動員)も多数含まれていました。
当時の作業環境においては、防護服やガスマスクの性能が現代の基準から見れば決して十分とは言えないものでした。密閉性や換気システムが不十分な環境下での製造過程において、ガス漏れ事故が発生した記録が残されています。また、日常的な作業の中での微量な吸入や皮膚への付着などにより、多くの作業従事者が呼吸器系の疾患をはじめとする健康被害を受けたとされています。
彼らは厳重な機密保持の誓約のもと、自身が何を製造しているのか明確に知らされないまま作業にあたったケースもあったと記録されており、現在も国による元従業員への医療支援が継続されています。
コンクリートの残骸が語るもの
島内を一周するルート(約3.3キロメートル)に沿って歩くと、これらの歴史を無言で物語る遺構がいくつも残されています。
【発電所跡】

島の北部で圧倒的な存在感を放っているのが「発電所跡」です。毒ガスの製造工程において、特に原料となる塩素を取り出すための電気分解には膨大な電力が必要とされました。その電力を賄うために建設された巨大なコンクリート建築です。現在、内部の機械類は撤去され、蔦の絡まる外壁と高い煙突、そして朽ち果てた窓枠だけが残されています。がらんどうになった内部空間の広さは、当時の施設がいかに大規模なものであったかを物語っています。
【毒ガス貯蔵庫跡】

島内各所には、製造されたイペリットなどを保管するための「毒ガス貯蔵庫跡」が存在します。巨大なコンクリートの台座が残る場所や、山肌をくり抜くように造られたものなど形態は様々です。内部は現在も薄暗く、ひんやりとした空気が漂っており、壁面の一部が黒く変色している箇所は、保管されていた物質の性質や戦後の処理過程による影響とされています。
【砲台跡との重なり】

大久野島は、毒ガス工場となる以前の日露戦争時代にも、「芸予要塞」の一部として砲台が設置されていた歴史を持ちます。島の中央部や北部には当時の砲台跡が残されており、要塞としての役目を終えた後の兵舎跡などが、のちに毒ガス製造期の製品置き場等として転用されたという記録もあります。一つの島が、異なる時代の軍事施設として二重に使用されていた事実も、この島特有の歴史的重層性を示しています。
これらの朽ちたコンクリートの遺構を背景に、柔らかな毛並みのうさぎたちが日差しを浴びている光景。その強烈なコントラストは、大久野島でしか見ることのできないものであり、人間の営みの痕跡と自然の生命力が同じ空間に同居している不思議な感覚を呼び起こします。
戦後の処理と環境保全:大久野島毒ガス資料館
1945年の終戦に伴い、大久野島での毒ガス製造は停止されました。島内に残存していた大量の化学兵器は、進駐軍の監視のもとで処理されることとなりました。
記録によれば、処理の方法は主に太平洋や瀬戸内海沖への海洋投棄、土中への埋設、および火炎放射器等を用いた焼却処分などでした。現在も、島内の一部では環境省等による定期的な土壌調査や地下水調査が継続されており、過去の痕跡に対する環境保全の取り組みが続けられています。観光客が立ち入るエリアの安全性は確保されていますが、フェンスで囲まれ立ち入りが制限されている区域があることもまた、歴史の延長線上にある事実です。
島の一角には、「大久野島毒ガス資料館」が建っています。館内には、実際に使用されていた毒ガス製造用の機械の一部や、分厚いゴム製の防護服、作業に従事していた人々の当時の日記や証言の記録などが展示されています。この施設は特定の解釈や評価を付加するのではなく、ただ「過去にここで何が行われていたか」という客観的な事実の集積として存在しています。
現在の憩いの場としての「休暇村大久野島」

こうした重い歴史を持つ大久野島ですが、戦後の処理作業が完了したのち、島は新たな役割を担うこととなりました。瀬戸内海国立公園の一部として指定され、1963年(昭和38年)にリゾート施設である「国民休暇村(現在の休暇村大久野島)」が開業したのです。
これが、現在の大久野島が観光地として歩み始めたベースとなっています。島内には一般車両の乗り入れが原則禁止されているため、車のエンジン音や排気ガスがなく、非常に静謐でクリーンな環境が保たれています。
宿泊施設を中心に、天然のラジウム温泉「せと温泉」やキャンプ場、夏季限定の海水浴場が整備されています。休暇村の前の芝生広場でくつろぐ家族連れや、レンタサイクルで海風を切りながら走る観光客の姿。そして、それを取り囲むようにのんびりと過ごすうさぎたち。これらはすべて、現在のこの島が持つ紛れもない「真実」の風景です。
広島滞在の拠点として ― Hotel Small World

広島の歴史や瀬戸内の風景を巡る旅の際には、広島市内に位置するHotel Small Worldもご滞在の拠点の一つとしてご利用いただけます。街の中心部に位置するこのホテルは、観光地へのアクセスの良さと落ち着いた空間を兼ね備えた宿泊施設で、広島をゆっくりと巡る滞在型の旅にも適しています。
原爆ドームや平和記念公園などの歴史的な場所に足を運び、さらに瀬戸内の島々へと旅を広げる──。そんな広島の多面的な魅力を感じる旅の中で、静かに一日を振り返る場所として心地よい時間を過ごすことができます。
〈Hotel Small Worldからのアクセス:大久野島への行き方〉
Hotel Small Worldから大久野島へ向かう場合、まず本州側の玄関口である忠海港を目指します。
① JR利用
広島駅からJR呉線に乗車し、約1時間で忠海駅に到着します。
忠海駅から港までは徒歩約7分です。
② フェリー利用
忠海港から大久野島行きのフェリーまたは客船に乗船し、瀬戸内海の景色を楽しみながら約15分で大久野島に到着します。
島内は車両の乗り入れが制限されているため、徒歩やレンタサイクルでゆっくり散策するのがおすすめです。海風を感じながら島を一周すれば、うさぎたちの穏やかな日常と、コンクリートの遺構が語る歴史の記憶、その両方に触れることができます。
まとめ
大久野島を歩くとき、私たちは否応なく時間の残酷さと優しさの両方に直面します。
廃墟となったコンクリートの遺構は、それ自体が自らの歴史的評価を語ることはありません。そこにあるのは、当時の国家の決定のもとで大規模な施設が稼働し、兵器が造られ、そして健康を害した者がいたという「事実」のみです。
過去のネガティブな感情をただ引きずり続けることは、必ずしも建設的ではありません。過去を否定的な感情のみで塗りつぶすのではなく、あるいは逆に美しい自然の風景だけで覆い隠すのでもなく、二つの顔をそのままの事実として受け入れること。
歴史の記録にしっかりと目を向けながらも、そこに立ち止まり続けるのではなく、そこから得た事実を未来の平和な日常へと生かしていく姿勢こそが重要です。
海沿いの道を歩きながら、かつて防護服を着た人々が行き交った道に、今はうさぎが小さな足跡をつけている光景を目にします。毒ガスが製造されていた時代も、そしてうさぎたちが跳ね回る現在も、瀬戸内海の穏やかな波音は変わることなくこの島を包み続けています。